OSHOダイナミック瞑想のススメ

2018/10/23

何故、今、OSHOダイナミック瞑想なのか...

インドの神秘家 OSHO
インドの神秘家 OSHO

いよいよ来週11月3日〜5日まで2018年では最後の「宇宙まるごと自分まるごとと繋がるワークショップ」長期のリトリート(自己回帰)プログラムが始まります。このプログラムの中で毎朝最初にOSHOダイナミック瞑想を行います。この機会ににどうしても3日連続ダイナミック瞑想を試みていただきたいと思いプログラムを構成いたしました。2018年は日本にとって、世界にとって、地球全体にとって様々な異変が起こり節目の年になりました。
地球変革のこの大切な時代を生きる皆さんに知っていただきたい事として
OSHOダイナミック瞑想をAroma.Ya.Soraが何故こんなにまで皆さんにおススメしているのか。という理由、皆さんにどの様な効果をもたらすものなのか。ということを今日は熱く語りたいと思います。

瞑想で「無」になれないのは瞑想が自分に向いていないから...?

瞑想とは無の境地へ果てしない道?
瞑想とは無の境地へ果てしない道?

「瞑想はやってみたいけど、以前挑戦した時、雑念ばかりで全然駄目だったんです」
「瞑想って忍耐力を育てるものですよね。。。?」「じっと座っている事が苦手なので向かないと思います」....こんな意見をよく耳にします。
が、しかしここで良く考えてみましょう。。。
現代は情報の時代。世の中は様々な情報で溢れています。更に加えてこれまた前代未聞の忙しさ!一人何役もこなし、家庭に仕事にプライベートに翻弄されています。更に資本主義、経済が軸になった物の価値観が主流の日本の社会です。わたしたちの頭の中はまさに24時間フル稼働。思考は止まることはありません。

こんなフル稼働の思考を持ったわたしたちが座って目を閉じただけで「無」になれる方が変ですよね。。。(≧▽≦)

そうです。瞑想して無になれなかったあなたが正解です。(笑)

OSHO瞑想がアクティブ瞑想である理由

アクティブ瞑想での解放
アクティブ瞑想での解放

ご存知の様に瞑想とは古代からの英知。座禅の様な座って目を閉じ静かにしている静的な瞑想は実は古代人のために作られた方法です。古代人は現代のわたしたちと違い、意識が頭ではなく既に丹田にあったと言われています。だから、目閉じ、静かに呼吸に集中するだけで意識の階層を高次元さらには無(魂や神との接続)の境地にいくことができたのでしょう...
が対して私達現代人の意識は「頭」にあります。意識の層を高次元、更には無の境地に到達させていくためにはまずは頭にある意識を丹田にまで下す必要があるのです。
その作業の方法として、OSHO瞑想は現代人のわたしたちに相応しい瞑想方法としてOSHO(1931年12月11日 - 1990年1月19日)によって何年もかけて科学的にデザインされたものです。特にOSHOダイナミック瞑想では鼻から息を混沌と吐き続けたり、自分の中の狂気や感情を叫び、出し続けたりジャンプしたり踊ったり。。。ととにかく激しく汗をダラダラかき続けます。「これが瞑想???」という今までの静かな瞑想の固定概念を180度覆すものです。

OSHOからの現代人に向けての「瞑想とは...」のメッセージ 

OSHOダイナミック瞑想の秘密
OSHOダイナミック瞑想の秘密

次にOSHOからの言葉を引用します。

現代人というのは、全く新しい人間だ。現代人の様な人は、今まで決して存在したことがなかった。だからどんな伝統的なメソッドも、厳密には彼らに用いられない。つまり言ってみれば、すべての伝統的なメソッドは適切でなくなってしまった。
例えば、身体は大きく変化した。とても汚染され、どんな伝統的なメソッドもその助けにはならない。今、地球をとりまく環境全体が人工的だ。大気、水、社会、生活をとりまく状況、何ひとつ自然ではない。あなたは人工的な環境の中で生まれ、その中で育つ。だから伝統的なメソッドは、今日では有害だと証明されるだろう。それらは、現代人にあわせて変化させなければならない。
もうひとつのことは、マインドの質が基本的に変化したことだ。パタンジャリ(もっとも有名なヨガの注釈者)の時代には、人々の人格の中心は頭ではなくハートにあった。それ以前は、ハートでさえなかった。それはもっと低く臍に近いところ、あるいは、臍よりも更に低いところでさえあった。いまや、中心は頭にある。だから、クリシュナムルティのような教えが気に入られるのだ。どんなメソッドも、どんなテクニックも必要ではなく、ただ理解だけだ。しかし、もし言葉の理解、知識だけだとしたら、何も変化せず何の変容も起こらない。それは再び、ただの知識の堆積になる。

私は、整然としたメソッドよりむしろ混沌としたメソッドを使う。なぜなら混沌としたメソッドは、中心を頭から下げるのをとても助けるからだ。どんな系統的メソッドも、中心を押し下げることはできない。なぜなら、系統化することは頭の働きだからだ。系統的メソッドによって頭は強められ、もっと多くのエネルギーがそこに注ぎ込まれるだろう。混沌としたメソッドをする時、頭は無用だ。それは、頭とは何の関係もない。メソッドがあまりにも混沌としているので、中心は自動的に頭からハートに押し下げられる。もしあなたが、 ダイナミック メディテーションという私のメソッドを、力強く、無秩序に、混沌と、行なうならば、あなたの中心はハートに移動する。その時、浄化は起こる。

浄化は必要だ。なぜなら、あなたのハートは頭の為にとても抑圧されているからだ。頭があなたの実存の中であまりにも優勢になり、それがあなたを支配している。ハートにはどんなスペースもなく、その切望は抑圧されている。あなたは決して心から笑ったこともなければ、心から生きたこともないし、心から何かをやったこともない。頭がいつも系統化しに、物事を数学的にするためにやって来て、ハートは抑圧される。だからまず最初に、意識の中心を頭からハートに落とすため、混沌としたメソッドが必要となる。
だから、ハートの重荷を降ろすために、ハートの抑圧を解き放つために、ハートを開くために浄化が必要だ。もしハートが軽くなり重荷が降りたら、意識の中心はますます下に押される。それは臍に落ちる。臍は活力の源だ。そこからすべての他のものがやって来る、種の源だ。身体、マインド、そしてすべてが、そこから来る。

私はこの混沌としたメソッドを、深い考慮の上で用いている。系統的方法論は、今や助けにならない。なぜなら、頭はそれを自分自身の道具として使うからだ。あるいは、献身的な愛の歌をただ唱和することは、今や助けにならない。なぜなら、ハートがあまりにも重荷を背負っているため、それが本当の唱和に花開くことはあり得ないからだ。意識が源に、根に降りなければならない。その時にだけ、変容の可能性はある。だから私は、混沌としたメソッドを、意識を頭から下に降ろすために用いる。

あなたが混沌の中にいる時、頭はその働きを止める。例えばあなたが車の運転をしていて、突然誰かが目の前に飛び出して来たら、あまりにも瞬間的な反応が必要なため、頭はそれに反応できない。頭には時間が必要だ。それは、どうすべきでどうすべきではないかを考える。だから、あなたが事故の可能性を前にしてブレーキをかける時はいつも、臍の近くに何かの感覚を感じるだろう。あたかも、あなたの胃が出来事に対処しているかのように。事故によって、あなたの意識は下に降ろされた。もしもその事故が事前に推定されるものであったら、頭はそれを処理することができただろう。しかし、あなたが実際に事故に遭う時、何か未知のことが起きている。その時、意識が臍に動くことに、あなたは気づく。

もし禅の僧に「あなたはどこで考えるのか?」と聞いたら、彼は腹に手を置く。西洋人が最初に日本の僧に会いに来た時、彼らは理解することができなかった。「ナンセンスだ! どうやって腹で考えるというんだ?」
しかし、禅の回答は意味深い。意識は身体の中のどのセンターにも使える。本来の源にもっとも近いセンターは臍だ。頭は本来の源からもっとも遠い。だから、もし生命エネルギーが外向きに動いているなら、意識の中心は頭になる。そして、もし生命エネルギーが内向きに動くなら、究極的には臍が中心になる。

混沌メソッドは、意識をその根っこに押し下げるために必要だ。なぜなら、根からのみ変容は可能だからだ。さもなければ、あなたがいくら言葉だけを並べ続けても、変容は起こらないだろう。何が正しいのかをただ知るだけでは充分ではない。あなたは根を変容しなければならない。そうでなければ、あなたは変わらない。
ある人が何が正しいかを知っているのに、それについて何もできない時、彼は二重に緊張する。彼は理解しているけれど、どうすることもできない。理解というものは、それが臍――根からやって来る時にだけ、意味を持つ。もし頭だけで理解したなら、それがあなたを変容することはない。                                                       
究極は、頭を通して知ることはできない。なぜならあなたが頭から機能している時、あなた自身の源である根と衝突しているからだ。あなたの問題のすべては、臍から離れてしまったことにある。あなたは臍からやって来たし、そこを通って死んでいく。人は根に帰って来なければならない。しかし、それは困難で骨が折れる。

伝統的なメソッドが、興味を持たれて来た。なぜならそれらはとても古くからあり、過去にとてもたくさんの人々が、それによって達成して来たからだ。それらは、私達にとっては不適当になってしまったかもしれないが、ブッダ、マハビーラ、パタンジャリ、クリシュナにとっては、不適当ではなかった。それらは意味深く、助けになった。古いメソッドは今や意味がなくなってしまったかもしれないが、ブッダがそれによって達成したが故に、それらは気を引く。伝承主義者は感じる、

「ブッダがこのメソッドによって達成したなら、なぜ私にもそれが起こらないんだ?」

しかし今、私達は皆、その頃とは異なった状況にある。環境全体、そして思考の領域全体が変わってしまった。すべてのメソッドは、ある特定の状況に、特定のマインドに、特定の人々に対して有機的だ。古いメソッドが有効ではないという事実は、どんなメソッドも役に立たないということではない。メソッド自体を変化させなければならないだけのことだ。現在の状況を見る時、現代人はあまりにも変わってしまったため、新しいメソッド、新しいテクニックを必要としているということだ。

Osho: The Psychology of the Esoteric, Talk #4

瞑想とは変容、花開くこと

瞑想は何のために行うのか?
瞑想は何のために行うのか?

もう一つは、瞑想を何のために行うのか...ということを知らない方が意外に多いです。スピリチュアルを求める人が行うもの、サイキックパワーや修行僧の様な特別な人間になろうとしている人が行うもの思っていたりするようです。これまた大きな誤解です。

「瞑想とはなにか。。。」との答えはいくつもあるのですが、1つの応え。瞑想とは意識の変容です。解りやすく言うとわたしたちの意識には階層があります。先程、24時間思考がフル稼働というお話をしましたが、1日のうち意識は不安や怒り、悲しみの様な感情が伴うとネガティブな方向になり、ほっておくとよからぬ方向に果てはありもしない妄想に駆り立てられる。。。なんてこともある。それに対してポジティブの層も同じようにあり、一人の人間の中での思考回路はほっておくと個人特有のパターンの中に上がったり下がったりを自動的に毎日繰り返しています。そこに瞑想はどの様に作用していくのでしょうか。。。瞑想は普段無意識にしている自分の内に起こってくる思考に乗っ取られ続けているのではなく、起きてくる思考をテレビや映画の映像を観るかのように起こるに任せてただ観続けていくのです。乗っ取られている時は映像の中の主人公になっている状態、瞑想時は観客としてその映像を操作することなく「見守る存在」という感覚が大きく違うところです。すると何が起きてくるかというと...ドラマのエンディングに見られるような現象「ああ、なるほど。。。こうしていくことにしよう。」という解決策に導かれたり乗っ取られている時には低い次元や狭い意識からの発想だったところから、広い視野やゆとりある高い次元での物の考え方に導かれたりします。自分の歪んだ思考パターンやトラウマ、身体の不調や不具合と固有の思考パターンの繋がりが観えたりもします。無の領域に到達するのはその次の段階です...

日常の生活、人生に生かされていく瞑想

自分のために。。。地球のために。。。
自分のために。。。地球のために。。。

瞑想が習慣化されてくると次第に、自分の内側にスペースが確保されます。日常の起こってきた出来事に対しても瞑想的に観ることができるようになったり、余計なことを考えなくなることも増えてくるのでやるべきことに集中できたりします。古くからの思考パターンや感情が原因で起きていた身体の不調や不具合も改善されてきたりします。瞑想を日常にしてから以前より生きることが楽になったと言われますし、わたし自身も本当に実感しています。特にOSHO瞑想ダイナミックを体験された方はその効果の速さと深さに驚かれます。これはいくら言葉で伝えようとしても体験してみないと本当のところは伝わらないものなのだと思います。そして一人一人の意識の変容が起きることは今の地球環境にも善い影響を与えていくことに繋がっていくのです。笑顔が笑顔として至福が至福に伝染するように。。。一人一人の意識の変容は地球にも影響を与えていくものなのです。地球の環境に役立てるわたしたちにできる最も大切なことの一つが瞑想の習慣化なのだと思います。

11月3日から5日までの3日間石垣島バンナ公園D棟にて終日OSHO瞑想を含めたリトリートを行います。この機会にOSHOダイナミック瞑想を是非お試しいただきたいと思います。詳細はコチラhttps://aromayasora.com/blog/item.cgi?Id=103

意識の変容を望む素敵な方々の参加をお待ちしています。