OSHO禅タロット➕OSHO瞑想ファシリテート個人セッション
oshoタロットによるリーディングとその時に相応しいosho瞑想をファシリテートを行う個人セッションです
あなたの今ここにoshoタロット➕osho瞑想
あなたの今ここへのOSHO禅タロットからのリーディングと
100種類あるOSHO瞑想の中から最適な瞑想をファシリテート。
トータル120分の個人セッションです。
1回コース 12000円
3回コース 30000円
定期コース 月2回 (3か月コース)
60000円
月2回 (6か月コース)
110000円
各セッションとも繰り返し瞑想できるように限定Youtubeビデオをセッション後、お渡しいたします。
oshoタロットとは…
あなたを導く OSHO 禅の思想
OSHO 禅タロット (日本語版) カードは世界共通で、解説書が日本語訳です。
このタロットは “今、そして、ここ”の理解を得ることに焦点をあてています。
なによりも(気づき)に焦点をあてています。
私たちの(気づき)を外側の出来事から、私たち自身の、もっとも奥深いハート
のなかで起っていることへと、方向転換させ、その起っていることを理解する
ための、新しい明晰さを見出すことができるように助けてくれます。
ウェブサイト OSHO Institute for Meditation Healing
https://osho-japan.com/ より抜粋
OSHO Active Meditationsとは…
より満たされた人生を送りたいのであれば、まずは自分の可能性、本当の自分を知りたいと思うでしょう。 瞑想 とは、知ることの根源です。それは、覚醒の科学の方法論です。
内なる科学の美しさとは、内面を探索し、経験したい人は誰でも、ひとりでそれをすることが可能だということです。これは、外部の権威への依存や、組織に所属する必要性、特定のイデオロギーを受け入れる必要性を消し去ります。一度あなたがステップを理解したなら、自分自身の力で、個人としてのやり方で歩んでいきます。
多くの瞑想法では、静寂を保つためにじっと座っていることが求められます。第一に、貴重なのは内なる静けさであり、外なる静けさはその内なる静けさをサポートするためのものでしかありません。そして第二に、私たちの多くは、体やマインドに蓄積されたストレスのために、内なる静けさと外なる静けさを得るのは非常に困難だということです。
Osho Active Meditations は、抑圧された感情や感覚を意識的に表現し、体験し、解放することができるように、 Osho が長い実験期間を経て科学的にデザインしたものです。それによって内側への旅が始まるのです。
「瞑想とは、静寂、気づき、目撃することを意味する。瞑想は一日のうち、いつでもできる。仕事をしている最中でも、歩いている間でも、何かをしている間でも瞑想できる。そうしないと、少し不自然なままだ。瞑想は生活から切り離されたものではない。それは切り離されるべきではない。瞑想は生活の至る所で行われるべきだ。歩いている中で瞑想するべきだ、座っている中で瞑想するべきだ。静かに、完全に気づいている。ゆっくりと、ゆっくりと、それはあなたの味わいそのものになる……」Osho
osho International resort
ウェブサイトから抜粋
https://osho.com
座る瞑想とアクティブメディテーションのどちらから始めるのが良いでしょうか?
座る瞑想とアクティブメディテーションのどちらから始めるのが良いでしょうか?
ただ座るだけで瞑想に入っていくこともできるが、そのときはただ座り、座る以外のことは一切しない。ただ座っていられるのであれば、それは瞑想となる。座ることの中に完全にいなさい。微塵の動きもないことこそが、あなたの唯一の動きとならなければならない。事実、禅という言葉は座禅に由来する。それは何もせずただ座るという意味だ。身体は何もせずマインドも何もせずただ座っていられるのであれば、それは瞑想となる。だがそれは難しい。何か他のことをしながら座るのはいともたやすいが、何もせずにただ座るとなったとたん、それは問題となる。身体のすみずみが内側で動き始める。血管のすべて、筋肉のすべてが動きはじめる。あなたは微細な震えを感じ始めるだろう。それまで気にしたことが一度もなかった身体の多くの部分に気づくだろう。そしてただ座ろうと試みるほどに、自分の内側により一層動きを感じるだろう。だからまず先に他のことをやってからのみ、座る技法が使えるようになる。
ただ歩くことはできる、これはより簡単だ。ただ踊ることはできる、これはさらに簡単だ。そしてその他のより簡単なものごとをやり続けた後でなら、あなたは座ることができる。ブッダのように鎮座するのは本当に最後の最後で、決して最初に行われるべきではない。動きと完全にひとつになるのを感じ始めてはじめて、不動と完全にひとつになるのを感じ始められる。
だから私は決して人びとに、ただ座ることから始めなさいとは言わない。始めるのが簡単なところから始めなさい。さもないとあなたは不必要に多くのことを――ありもしないことを感じ始めるだろう。座ることから始めると、内側に多くの騒乱を感じる。ただ座ろうとすればするほど、より騒乱が感じられるだろう。気づきに上るのは、自分の狂ったマインドの他何もない。それはあなたを落ち込ませ、あなたは不満を感じる。至福を感じるどころか、むしろ自分は正気でないかように感じ始める。そして本当に正気を失ってしまうこともあるかもしれない。
「ただ座る」という努力を真剣にしたら、あなたは本当に発狂してしまうかもしれない。人はそれほど真剣にはやらないので、そう頻繁には発狂など起こらないだけのことだ。座っていると内側にどれほどの狂気が宿っているか思い知ることになるので、真剣に続けたなら本当に気が狂いかねない。そういうことは今まで何度も起きてきた。だから私は決して、不満や落ち込みや悲しみを生み出すようなもの――自分の狂気に気づきすぎてしまいかねないものは何であれ、勧めない。内なる狂気のすべてに向き合う準備が、あなたにはできていないかもしれないからだ。あるものごとは段階を追って知ることが許されるべきだ。知識が常に良いとは限らない。そういうことは、それを吸収するあなたの器が育つにしたがって、徐々に明かされるべきだ。
私は、座ることではなく、あなたの狂気から始める。私はあなたの狂気を許す。狂ったように踊ると、あなたの内側ではその反対のことが起こる。踊り狂っていると、あなたは内側の静かな場所に気づき始める。静かに座っていると、あなたは自分の狂気に気づき始める。常に正反対が、気づきの点になる。狂ったように混沌と踊ること、叫ぶこと、混沌と呼吸することで、私はあなたの狂気を促す。そうすればあなたは精妙な点、内側深くにあり表層の狂気と対比を成す静止した点に気づき始める。あなたは大いなる至福を感じるだろう――中心には内なる静けさがある。ところがただ座っていたなら、内側にいるのは狂った人だ。あなたは外見は静かだが、内側では狂っている。
何かアクティブなことから始めたなら――何かポジティブで、生き生きとして、動きのあることから始めたなら――その方が良い。そうしたら内なる静止が育っていくのを感じ始めるだろう。それが育つにつれて、あなたは座位、あるいは横になった姿勢を使うことができるようになり、静かな瞑想が可能になっていく。だがその頃には状況は違っている――まったく違っているだろう。
動きや行為から始まる瞑想技法は、また別の面でも役に立つ。それはカタルシス(浄化)になる。ただ座っているとき、あなたは欲求不満だ。マインドは動きたいのにあなたはただ座っている。あちこちの筋肉が動き、あちこちの神経が動く。あなたは自分にとって自然でないことを自分に強いようとしているのだ。それではあなたは強いる者と強いられる者とに自分を分裂させてしまうことになる。そして、強いられ抑圧されている部分こそがより本物の部分なのだ。それは、抑圧している側の部分よりもマインドの大きな部分を占めている。そして大きな部分を占めている側が、必ず勝利する。
あなたが抑圧しているものは、抑圧されるのではなく、実際に投げ出さなければならない。あなたがそれを常に抑圧してきたために、それはあなたの内側に山と溜まっている。しつけ、文明、教育全体が抑圧的だ。違った教育、より意識的な教育、より気づきに満ちた両親の元であれば容易に投げ出せたであろう多くのことを、あなたは抑圧してきた。
例えば、子どもが怒っているとき、私たちは子どもに「怒ってはいけないよ」と言う。子どもは怒りを抑圧し始める。やがて、一時的な現象がいつしか永続的なものとなる。彼は今や怒りを表さず、怒りを抱えたままでいるだろう。ただ一時的にすぎなかったことから、私たちは多くの怒りを溜め込んできた。怒りが抑圧されてこない限り、ずっと怒り続けられる人などいない。怒りはその場限りのもので、来ては去る。それが表現されたならもう腹は立たない。だから私と一緒にいたら、子どもは本気で怒ることを許されるだろう。怒りなさい、しかし本気で怒るように。決して抑圧してはいけない。
もちろん、問題はある。「怒りなさい」と言うと、あなたは誰かに対して怒ることになるだろう。だが、子どもは型にはめることもできる。枕を渡して、「怒りを枕にぶつけてごらん。枕に暴力をふるってごらん」と言ってやったらいい。まさにはじめから、怒りがただ逸らされるようなやり方で子供を育てたらいい。子どもに何かものを与え、怒りが収まるまでそれを投げ続けさせたらいい。数分、いや数秒もすれば彼の怒りは消散し、溜まっていきはしないだろう。
あなたは、怒り、セックス、暴力、欲望、すべてを溜め込んできた! さあ、この溜め込んできたものこそが、あなたの内なる狂気だ。それはそこに、あなたの内側にある。もし何らかの抑圧的な瞑想――例えば、ただ座ること――から始めると、こうした全てをあなたは抑圧していて、それが解放されるのを許していない。だから私はカタルシス(浄化)から始める。まずは抑圧しているものを空中に投げ出すのだ。怒りを空中に投げ出せるようになったなら、あなたは成長している。
もし私が一人では愛情深くいられず、愛する人といるときだけ愛情深くあれるなら、私は本当にはまだ成熟していない。それでは愛情深くあることでさえもが、誰かに依存していることになる。誰かがそこにいてはじめて、私は愛情深くあれる。それではその愛情深さは、ほんの上っ面に過ぎない。それは私の本性ではない。私が部屋に一人でいて、まったく愛情深くないのなら、つまりその愛情深さの質は深みに至っていない。私の実存の一部となっていない。
依存が薄まっていくほどに、あなたは成熟していく。もし一人で怒ることができるなら、あなたはより成熟している。あなたは怒りの対象を何ら必要としない。だから私は、始めにカタルシス(浄化)を必須としている。特定の対象に構うことなく、すべてを空中へ、開かれた空間へと投げ出さなければならない。
怒りなさい、怒りたい相手なしに。泣きなさい、どんな理由も見つけることなく。笑いなさい、笑う対象なしに、ただ笑いなさい。そうすれば溜め込んできた全てを、ただ投げ出すことができる――ただそれを投げ出したらいい。ひとたびやり方がわかったら、あなたは過去の重荷のすべてから解放される。
瞬く間に、生涯にわたる重荷――何生にも渡る重荷からさえ解放される得る。もしあなたにすべてを投げ出す用意があるなら、自分の狂気が表に出てくることを許せるなら、瞬く間に深い浄化が起こる。今や、あなたはきれいになった。新鮮で、無垢だ――あなたは再び子供になる。今や、あなたのその無垢さにおいてなら、座る瞑想が可能だ――ただ座る、ただ横になる、あるいは何であれだ。というのも、今や、座ることを邪魔する狂人は内側にいないのだから。
浄化が最初でなければならない――カタルシスだ。さもなければ、呼吸のエクササイズであれ、ただ座るのであれ、アーサナやヨガのポーズの練習では、あなたは何かをただ抑圧しているだけだ。そして非常に不思議なことだが――すべてが投げ出されるのを許すと、座ることはただ起こり、アーサナはただ起こる――それは自然に起こる。
あなたはヨガのアーサナについて何も知らなかったかもしれないが、それをやり始める。今や、そうしたポーズは本物で、リアルだ。それはあなたの身体の内側に多くの変容をもたらす。なぜなら、今や身体自身がポーズをしていて、あなたがそれを強いているのではないのだから。例えば、ある人が沢山のことを投げ出したら、彼は頭を床につけて逆立ちしてみようとするかもしれない。彼はシールシャーサナ、頭立ちのポーズを学んだことはないかもしれないが、彼の全身がそれをやってみようとする。これは今やきわめて内的なことであり、彼の身体の内なる知恵から現れてくるのであって、マインドの知性や脳の情報からではない。もし彼の身体が「頭立ちをやれ!」と主張し彼がそれを許すなら、彼はそれによりとてもすっきりし、大きな変化を感じるだろう。
どんなポーズもあり得るが、そうしたポーズが自然に現われるときにのみやるようにしなさい。シッダアーサナ(達人座)や他のどんなポーズでも、座ってじっとしていられる人はいるが、こうしたシッダアーサナはかなり違うものだ。質が違う。そういう人は静かに座ろうと試みる――だがこちらは自然に起き、抑圧も努力もない。それはただ、身体が感じるままだ。あなたの全実存が座りたいと感じる。こうした座りにおいては、マインドの分離も、抑圧もない。このような座りは、開花となる。
花の上に座る仏陀の像を見たことがあるだろう。蓮の花だ。その蓮は象徴にすぎない。それは仏陀の内側で起きていることの象徴だ。「ただ座る」ことが内側から起こるとき、あたかも花が開くようにあなたは感じる。外側から抑圧されるものは何ひとつなく、むしろそこには成長、内側からの開きがある。内なる何かが開き花を咲かせる。仏陀のポーズを真似ることはできても、その花を真似ることはできない。あなたは完璧に覚者のように座ることが――仏陀以上に覚者然として座ることさえ――できるが、内なる開花はそこにないだろう。それは真似できない。
ごまかすのは可能だ。自分をじっとさせるような、マインドを抑えるような呼吸のリズムを使ったらいい。呼吸はきわめて抑圧的に使うことができる。なぜなら、どの呼吸のリズムも、あなたのマインドに特定の気分をつくりだすからだ。その他の気分は消えるわけではない――それらは隠れてしまう。
何でも自分にさせられる。怒りたければ、怒ったときのようなリズムでちょっと呼吸してごらん。役者たちはやっている。怒りを表現したいとき、彼らは呼吸のリズムを変える。怒りがあるときと同じような呼吸のリズムにならなくてはならない。リズムを速めていくと、彼らは怒りを感じ始める。マインドの中の怒りの部分が浮上してくるのだ。だから呼吸のリズムは、マインドを抑圧するため、マインドの中にあるどんなことでも抑圧するために使える。しかしそれは良くない。それは開花ではない。逆の方が良い。あなたのマインドが変わると、その結果として、呼吸が変わる。変化はまずマインドからやってくる。つまり私は呼吸のリズムを目安として使う。自分自身に寛いでいる人は、常に同じ呼吸のリズムのままだ。マインドゆえに変化することは決してない。身体ゆえに変化することはある――走れば変化する――だがマインドゆえに変わることは決してない。
だからタントラは、秘密の鍵として実に実に多くの呼吸のリズムを使ってきた。彼らは、性行為さえも瞑想として許す。だがそれが許されるのは、あなたの呼吸のリズムが性行為の間常に一定であるときのみだ。そうでなければ、許されない。もしマインドが関わっているとしたら、そのときは呼吸のリズムは同じであり続けられない。そしてもし呼吸のリズムが同じままなら、マインドは全く関わっていない。性行為のように深く生物的なことにおいてさえマインドが関与しないのなら、他のどんなことにもマインドが関与することはないだろう。
だが、あなたは無理強いできる。座り、ある特定のリズムを身体に強いることができる。覚者然とした偽りのポーズもとれるが、あなたはただ枯れていくだろう。あなたは鈍く、愚かになるだろう。それが数多くの僧侶たち、サドゥー(修行者)たちに起きてきたことだ。彼らはただ愚かになっている。彼らの目に、知性の光はない。内なる光も、内なる炎もない、まったくの間抜け顔だ。彼らは内側のあらゆる動きを恐れているがゆえに、すべてを抑圧している――知性を含めてだ。知性はひとつの動きだ。最も微細な動きのひとつだから、もし内なる動きのすべてが抑圧されたら、知性は影響を受けてしまう。
気づきは不動のものではない。気づきも、また、動き――ダイナミックな流れだ。だから外側から始めたなら、彫像のように座るよう自分に強いたなら、あなたは多くを殺すことになる。まずはカタルシスに、すべてを投げ出してマインドを一掃することに気を配りなさい。あなたが空に、空っぽになるように――彼方からの何かが入ってくるただの通路になるように。そうすれば座ることは役に立つようになり、サイレンス(沈黙)は役に立つようになる。それ以前ではない。
私にとって、サイレンスそれ自体は価値はない。あなたは死んだようなサイレンスをつくりだすことができる。サイレンスは、生き生きと活気に満ちていなければならない。もしあなたがサイレンスを「つくり」だしたなら、あなたはもっと愚かで、もっと鈍く、もっと死んだようになるだろう。だが、ある意味これはより簡単だから、現在では多くの者たちがそうしている。文化全体があまりに抑圧的なので、自分を抑圧する方がずっと簡単だ。そうすれば危険を冒す必要もないし、飛び出す必要もない。
人びとは私のところにやって来て言う。「静かに実践できるような瞑想技法を教えてください」 なぜこの恐怖? 内側では誰もが気ちがい病院であるにも関わらず、彼らは言う。「静かに実践できる技法を教えてください」 静かな技法では、あなたは――静かに――いっそう狂っていくばかりで、それ以外は何もない。
あなたの気ちがい病院の扉は開かれねばならない! 他の人が何を言うかなど、恐れてはならない。他の人がどう思うか気にする者は、決して内側へと向かうことはできない。彼は他の人が言うことや思うことを気に病むので大忙しになるだろう。
あなたが目を閉じてただ静かに座るなら、万事オーケーだ。妻や夫は、あなたがとても良い人になったと言うだろう。皆、あなたに死んでいてほしいのだ。母親でさえ子供に死んでいてほしい。従順で、静かでいてほしい。社会全体が、あなたに死んでいてほしい。いわゆる良い人というのは、すっかり死んでしまった人のことだ。
だから他人がどう思うかなど気にしないように。他人があなたに持つであろうイメージなど気にしないように。カタルシス(浄化)から始めなさい。そうしたらあなたの内側で、何か良いことが花開き得る。それは異なる質、異なる美しさを持ち、すっかり違っているだろう。それはほんものだ。
サイレンスがあなたに訪れたなら、それがあなたに降りてきたなら、それは偽物ではない。あなたがそれを育ててきたのではない。それはあなたに訪れる。それはあなたに起こるのだ。胎児が大きくなってくるのを母親が感じ始めるのとちょうど同じように、内側でそれが育っていくのをあなたは感じ始める。深い静けさが、あなたの内側で育っている。あなたはそれを宿した。そうしてはじめて変容がある――さもないとそれは自己欺瞞にすぎない。そして、人は何生にもわたり自分自身を欺くことができる――そうする能力には際限がない。
Osho, Meditation: The Art of Ecstasy, Talk #5より抜粋
なぜアクティブな瞑想が必要なのですか?
現代人というのは、全く新しい現象だ。現代人の様な人は、今まで決して存在したことがなかった。だからどんな伝統的なメソッドも、厳密には彼らに用いられない。つまり言ってみれば、すべての伝統的なメソッドは適切でなくなってしまった。
例えば、身体は大きく変化した。とても汚染され、どんな伝統的なメソッドもその助けにはならない。今、地球をとりまく環境全体が人工的だ。大気、水、社会、生活をとりまく状況、何ひとつ自然ではない。あなたは人工的な環境の中で生まれ、その中で育つ。だから伝統的なメソッドは、今日では有害だと証明されるだろう。それらは、現代人にあわせて変化させなければならない。
もうひとつのことは、マインドの質が基本的に変化したことだ。パタンジャリ(もっとも有名なヨガの注釈者)の時代には、人びとの人格の中心は頭ではなくハートにあった。それ以前は、ハートでさえなかった。それはもっと低く臍に近いところ、あるいは、臍よりも更に低いところでさえあった。いまや、中心は頭にある。だから、クリシュナムルティのような教えが気に入られるのだ。どんなメソッドも、どんなテクニックも必要ではなく、ただ理解だけだ。しかし、もし言葉の理解、知識だけだとしたら、何も変化せず何の変容も起こらない。それは再び、ただの知識の堆積になる。
私は、整然としたメソッドよりむしろ混沌としたメソッドを使う。なぜなら混沌としたメソッドは、中心を頭から下げるのをとても助けるからだ。どんな系統的メソッドも、中心を押し下げることはできない。なぜなら、系統化することは頭の働きだからだ。系統的メソッドによって頭は強められ、もっと多くのエネルギーがそこに注ぎ込まれるだろう。混沌としたメソッドをする時、頭は無用だ。それは、頭とは何の関係もない。メソッドがあまりにも混沌としているので、中心は自動的に頭からハートに押し下げられる。もしあなたが、 ダイナミック メディテーションという私のメソッドを、力強く、無秩序に、混沌と、行なうならば、あなたの中心はハートに移動する。その時、浄化は起こる。
浄化は必要だ。なぜなら、あなたのハートは頭の為にとても抑圧されているからだ。頭があなたの実存の中であまりにも優勢になり、それがあなたを支配している。ハートにはどんなスペースもなく、その切望は抑圧されている。あなたは決して心から笑ったこともなければ、心から生きたこともないし、心から何かをやったこともない。頭がいつも系統化しに、物事を数学的にするためにやって来て、ハートは抑圧される。だからまず最初に、意識の中心を頭からハートに落とすため、混沌としたメソッドが必要となる。
だから、ハートの重荷を降ろすために、ハートの抑圧を解き放つために、ハートを開くために浄化が必要だ。もしハートが軽くなり重荷が降りたら、意識の中心はますます下に押される。それは臍に落ちる。臍は活力の源だ。そこからすべての他のものがやって来る、種の源だ。身体、マインド、そしてすべてが、そこから来る。
私はこの混沌としたメソッドを、深い考慮の上で用いている。系統的方法論は、今や助けにならない。なぜなら、頭はそれを自分自身の道具として使うからだ。あるいは、献身的な愛の歌をただ唱和することは、今や助けにならない。なぜなら、ハートがあまりにも重荷を背負っているため、それが本当の唱和に花開くことはあり得ないからだ。意識が源に、根に降りなければならない。その時にだけ、変容の可能性はある。だから私は、混沌としたメソッドを、意識を頭から下に降ろすために用いる。
あなたが混沌の中にいる時、頭はその働きを止める。例えばあなたが車の運転をしていて、突然誰かが目の前に飛び出して来たら、あまりにも瞬間的な反応が必要なため、頭はそれに反応できない。頭には時間が必要だ。それは、どうすべきでどうすべきではないかを考える。だから、あなたが事故の可能性を前にしてブレーキをかける時はいつも、臍の近くに何かの感覚を感じるだろう。あたかも、あなたの胃が出来事に対処しているかのように。事故によって、あなたの意識は下に降ろされた。もしもその事故が事前に推定されるものであったら、頭はそれを処理することができただろう。しかし、あなたが実際に事故に遭う時、何か未知のことが起きている。その時、意識が臍に動くことに、あなたは気づく。
もし禅の僧に「あなたはどこで考えるのか?」と聞いたら、彼は腹に手を置く。西洋人が最初に日本の僧に会いに来た時、彼らは理解することができなかった。「ナンセンスだ! どうやって腹で考えるというんだ?」
しかし、禅の回答は意味深い。意識は身体の中のどのセンターにも使える。本来の源にもっとも近いセンターは臍だ。頭は本来の源からもっとも遠い。だから、もし生命エネルギーが外向きに動いているなら、意識の中心は頭になる。そして、もし生命エネルギーが内向きに動くなら、究極的には臍が中心になる。
混沌メソッドは、意識をその根っこに押し下げるために必要だ。なぜなら、根からのみ変容は可能だからだ。さもなければ、あなたがいくら言葉だけを並べ続けても、変容は起こらないだろう。何が正しいのかをただ知るだけでは充分ではない。あなたは根を変容しなければならない。そうでなければ、あなたは変わらない。
ある人が何が正しいかを知っているのに、それについて何もできない時、彼は二重に緊張する。彼は理解しているけれど、どうすることもできない。理解というものは、それが臍――根からやって来る時にだけ、意味を持つ。もし頭だけで理解したなら、それがあなたを変容することはない。
究極は、頭を通して知ることはできない。なぜならあなたが頭から機能している時、あなた自身の源である根と衝突しているからだ。あなたの問題のすべては、臍から離れてしまったことにある。あなたは臍からやって来たし、そこを通って死んでいく。人は根に帰って来なければならない。しかし、それは困難で骨が折れる。
伝統的なメソッドが、興味を持たれて来た。なぜならそれらはとても古くからあり、過去にとてもたくさんの人びとが、それによって達成して来たからだ。それらは、私たちにとっては不適当になってしまったかもしれないが、ブッダ、マハビーラ、パタンジャリ、クリシュナにとっては、不適当ではなかった。それらは意味深く、助けになった。古いメソッドは今や意味がなくなってしまったかもしれないが、ブッダがそれによって達成したが故に、それらは気を引く。伝承主義者は感じる、「ブッダがこのメソッドによって達成したなら、なぜ私にもそれが起こらないんだ?」
しかし今、私たちは皆、その頃とは異なった状況にある。環境全体、そして思考の領域全体が変わってしまった。すべてのメソッドは、ある特定の状況に、特定のマインドに、特定の人々に対して有機的だ。古いメソッドが有効ではないという事実は、どんなメソッドも役に立たないということではない。メソッド自体を変化させなければならないだけのことだ。現在の状況を見る時、現代人はあまりにも変わってしまったため、新しいメソッド、新しいテクニックを必要としているということだ。
Osho: The Psychology of the Esoteric, Talk #4
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