ホリスティックケアの真髄について 2〜 Body Mind Spiritの特質とそのつき合い方

2019/01/16

人間は機械ではなく、カラダ、こころ、魂で構成される有機体である

真理と内側から向き合うことの至福...
真理と内側から向き合うことの至福...

ここからは解りやすく説明をするためにOSHOの講話を元に翻訳された「こころでからだの声を聴く...Body Mind Balancing]発行所:市民出版社 から文面をしばらく引用します。

「西洋医学の考えによると、人間は独立した単位(ユニット)− 自然とは別個のものだ。
これほど重大な過ちも他にないだろう。人間は自然の一部だ。人間の健康とは、他でもなく自然と共に寛いでいることだ。

西洋の医療は、人間を機械にとらえている。− 構造に支障がないというところは問題がないというように。だが、人間は機械ではない。人間は有機ユニットであり、病んだ部分にだけ治療すればいいというものではない。(まるで壊れた機械の部品を取り換えれば直るというような発想!)
病んだ部分とは、他でもなく有機体全体が困難に陥っているということだ。
病んだ部分はそこが一番弱いから目につくというだけのこと。
病んだ部分を治療すると効き目があったように見える。だが今度は別の場所から病気が現れる。
......

あなたは人間がひとつのまとまりであることを理解していない。
人間は病気か健康かのどちらかであり、その中間はない。人間はひとまとまりの有機体としてとらえるべきなのだ。

ステップ1 身体の英知

Body Intelligence
Body Intelligence

理解すべき重要な点は、カラダは常にあなたに耳を傾ける用意があるということだ。
しかし、あなたはカラダと語り合ったこともコミュニケーションをとったこともまったくない。
あなたはカラダの中にいて、カラダを用いてきたがまったくカラダに感謝したことがない。
カラダは聡明にあなたに仕えている。− 仕え続けている。

自然はよく承知している。− カラダがあなたより聡明であることを。
なぜならカラダの重要な事柄は何一つあなたに任されておらず、カラダに委ねられているからだ。
呼吸、心臓の鼓動、血液の流れ、食べ物の消化 − それらはあなたに委ねられていない。
....
もし、あなたに呼吸が委ねられていたらとっくの昔にあなたは死んでいただろう。
しょっちゅう、呼吸を忘れてしまうからだ。
喧嘩をすれば呼吸を忘れてしまう。夜、眠るときには心臓を鼓動させるのを忘れてしまう。

あなたが絶えず体内に放り込んでいるあらゆる種類のガラクタをカラダは血液に変容させ、骨に変容させ、しかも血や骨ばかりか脳の栄養にまで変えている。

カラダはアイスクリームやコカ・コーラから脳を創り、その脳はアルバート.アインシュタインやブッタや老子のような人を生み出す。(少々オーバーな比喩ですが...!)
科学はこれまで発展してきたが未だアイスクリームから血液に変容させることはできていないというのに!。(笑)

この真髄を深く理解するとき「身体の英知」「奇跡」と言わず他になんというのだろう。

ステップ 1 身体に語りかける

身体は神からの素晴らしい贈り物
身体は神からの素晴らしい贈り物

ひとたび自分の身体とコミュニケーションをとり始めたら、事はとても容易になる。
身体に無理強いする必要はない。身体と闘う必要は一切ない。

「どうしてわたしの身体はこんななんだろう...もっと○○だったらよかったのに...」
「ここが痛い、あそこが痛い、自由でない自分の身体が疎ましい!どうしてわたしの身体はこうもいうことを聞いてくれないのだろう!」
「あの人の身体はあんなに綺麗で美しく自由なのにわたしの身体はこうも醜いのだろう」
「病気の自分との付き合いがこうも長いと今更カラダが英知だと言われたところで信じられるわけない!」
「からだに向き合って私なんかに何がわかると言うのだろう.....そんな馬鹿な話があるもんですか!」
「わたしはもっとやりたいことがあるのに、この身体はどうして言う事を聞いてくれないの!」
と、四六時中休まず動き続けて身体を酷使し、奴隷のように扱っていたかもしれない。。。
......etc etc..... 
きっと今までこのようにあなたは自分の身体について思考し、文句、不平や不満を言ってきた。
人間社会から刷り込まれてきた病気や様々な知識、自然の摂理からではない社会の習慣を多く耳にしてきたし、それが一般常識だからだ。

そして、病気は不具合は自分には得体の知れない妖怪のようなもの、恐いもので
自分にはどうにもできないもの。と思いこんできた。
人間は機械だという物の考え方が起点になり作り上げた産物が現代人のマインドだ。

その結果、身体の声を聴くことではなく、あなたの中で後天的に作られた思考(マインド)の声や社会の声を重視して身体を無視し、敵対し、自分では扱えないものと信じてきたのだ。
そればかりかその物の考え方から生み出された不安と恐怖でいっぱいになったあなたのマインドが次から次へと話し続ける。マインドは常に葛藤を繰り返し、あなたの身体との語らいまでもを混乱させ続けてきた!( ゜Д゜)...

あなたの身体の英知を理解する機会が今までなかったのだから...
あなたは自分の身体との付き合い方を今まで知らなすぎたのだ。

しかし、ひとたび自然の摂理に方向を変えて冷静に思いを巡らせてみよう。
身体はあなたの敵ではない。あなたの一部であなたの友なのだ。


あらゆる種類のマインドによる葛藤は緊張を生み出す。
だからどんな葛藤の中にもとどまらないこと − 

まずは深〜い深呼吸を繰り返しやすらぎを心掛けてみよう。

身体は神からの素晴らしい贈り物。
だからそれと闘い、否定することは神を否定することになる。
身体は神殿なのだ。
わたしたちはその中に納まっている。身体は寺院だ。
わたしたちはその中で生きており、トータルに手入れをする必要があるーそれはわたしたちの責任なのだ。

はじめのうちは少しバカバカしく思うカモしれない。というのも自分の身体に語りかけるなんて、わたしたちは教わったことがないのだから。− だがそれを通して奇跡が起こる。

以下にその実践方法と、瞑想を実践した結果のシェアに続きます...

ステップ2 内側に入り、マインドとカラダを観続けることによって繋がる英知

身体の英知は宇宙の英知
身体の英知は宇宙の英知

ここに身体の内側に入り瞑想する方法を「頭痛」を観るという例えでご紹介します。
「頭痛」でなくてもこれをどこかあなたの身体の不具合や病気、痛みにあてはめて同じ方法で
瞑想することができます。

「頭痛の中を見なさい
今度頭痛がしたら、ちょっとした瞑想テクニックを試しなさい。
ただ実践的にね。
そうしたら、もっと重い病いでも、もっと重い症状でも続けていくことができる。
そのため、頭痛がするときに小さな実験をするのだ。静かに座って頭痛を見守る。
だが、まるで敵を見るかのように見るのではない
そうではない。
”自分の敵”としてそれを見たら、正しく観ることはできない。
敵を見るときは人は避けるきらいがある。敵を重視する人は誰もいない。
そこで”自分の友”として観るがいい
それはあなたの友人であなたに仕えている。
それはこう言っている
「何かがまちがっているーーー
だからこの中を調べなさい」とね。
ただ黙って座り、頭痛を止めるという考えも持たずにそれが消えるべきだ、という欲望も持たずに
葛藤も、闘争も、敵対もなしに、その頭痛の中を観るがいい。ただその中を何なのかを見入るのだ。見守るがいい。

そこで内なるメッセージがあれば頭痛が与えてくれる
それは暗号化されたメッセージをたずさえている。そしてもし静かに見たらあなたは驚嘆するだろう。

もし静かに見たら、3つのことが起こる。
まず第一に、その中を見れば見るほどますます痛みが酷くなるということだ。
そこであなたはいささか困惑するだろう。
「痛みがいっそうひどくなっているのに、いったいどんな風に助けになるのだろう?」と
それがいっそうきびしくなるのはあなたが痛みを避けてきたからだ。
痛みはそこにあった、が、あなたはそれを避けていた。すでにあなたは抑えつけていた。
鎮痛剤を用いていないとしても、あなたがそれを抑え込んできた。
あなたがそのなかをのぞき込んだら抑圧は消えてなくなる。
頭痛はその本来の痛さになる。
そのとき、あなたは耳に栓をせずに耳を欺くことなく、それを聞いている。
一番目には、痛みがひどくなることだ。もしひどくなっているとしたら正しく観ていると確信していい。

もし、ひどくならないとしたら、あなたはまだ観ていない。
あなたは未だに避けている。
そのなかをのぞき込むがいい、
するとそれはひどくなるーー
それこそ、確かに痛みを視野の中にとらえたという第一の徴候だ。
二番目には、それがさらに正確に位置を指摘するようになることだ。
それは、以前ほど広範囲には広がってはいない。
あなたは最初から「頭全体が痛んでいる」と考えていた
いまや頭全体ではないことがわかる。
それはごく小さな点だ。
それもまた、あなたがさらに深くそのなかを見つめている徴だ。広がった痛みの感覚というのは、ひとつのごまかしだ。それこそ痛みを避けるやり方だ。

もしそれが一点あるとしたら、それはいっそうひどくなる
だから、あなたは頭全部が痛んでいるという幻覚をつくりだす。
頭全体に拡散したら、痛みはどの点でもあまりひどくない。
わたしたちが装いつづけているのは、そうしたごまかしなのだ。痛みのなかを観るがいい。
すると二番目の段階では、それが小さく小さくなっていくそして、まさに針先の点のようになる瞬間がやってくる。きわめて鋭い、猛烈に鋭い非常な痛さだ。

あなたはいまだ一度として、それほどまでの痛みを頭に経験したことはない。
だがほとんど小さな一点に限られている。
そのなかを観続けなさい。
そうなったら、三番目の最も重要なことが起こる。
痛みがきびしく、一点に制限され集中されているときに
尚その点を観続けていけば
あなたはしばしばそれが消えてなくなることを知る。
あなたの熟視が完全になると、痛みは消える
そしてそれがなくなるとき、
痛みがどこから生じているか、その原因何かの一瞥を得る
その結果が消滅するときにこそ、その原因を知る
痛みはたびたび起こり、ふたたびそこに生じる。
あなたの熟視は、もはやそれほど油断なく醒めていない。
それほど集中してもいないし、注意深くもないーーー

すると、それは戻ってくる。
あなたの熟視がそこにあるとき、いつでも痛みはなくなる。
そして痛みがなくなるときその背後に隠されているものこそ、その原因だ。
あなたは愕然とする。
あなたのマインドは、その原因の何たるかを暴露する用意ができている。原因は千と一つもありうるが、その警報システムは単純だから同じ警報が与えられる。
あなたの身体にはたくさんの警報システムなどない。
原因は違っていても同じ警報が与えられる。
最近あなたは腹をたてたかもしれない。

そしてそれを表出しなかった
突如として意外な新事実のように、怒りがそこに立ち止まっている。
あなたは抑えに抑えてつづけてきた自分の怒りのすべてを観る。

あなたの内部の膿のように.......
いまやそれはがまんならない。
その怒りは放たれることを欲している
それは放出(カタルシス)を必要としている、放り出すがいい。
するとたちどころにして頭痛がなくなってしまうことがわかる。
つまり鎮痛薬の必要はなく、治療の必要もまったくなかったのだ。
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瞑想によってのシェア

OSHO
OSHO

2019年1月16日(水) 19時〜 OSHOクンダリーニ瞑想

OSHOメッセージ 「贈り物」「意識を脊柱に置く」「頭痛の中を観る」
(この日は身体の中に入る方法をメッセージとして受け取り、それを実践する瞑想をした)

1stステージで身体のシェイクを始めたら「恐怖」「分離」という2つのキーワードが頭を過ぎり、その感覚に陥った時の独特の恐怖感、虚しさ、孤独感が身体の中に蘇る。身体の内側左半身にザワザワする感覚が腎臓からひし形に脊柱を貫き縦斜め方向に入り左頚椎1番2番の詰まり感と痛みを感じるあの感覚だ。
左胸心臓の鼓動が大きくなり緊張感も高まってくる、息苦しい感覚でもある。
日常の場面対人関係の中でわたしが反応し、この感覚に襲われるとき顏はこわばり、眉間にも皺がより緊迫した面持ちなのだろう。そして瞑想中の今もたぶんそうなのだろう。

この感覚を観続けていると、いくつかの関係ないと思われる映像からの連想で場面が移り変わり、母のお腹の中にわたしが胎児として存在していた時の場面になった。
「しまった!またここに戻ってしまった!」と瞬間的に思いがよぎる。
もう、この場面は何度も瞑想で確認していたし、はっきり言ってもう観に行きたくないところでもあり、同時に何度もここを観る必要があると示されることに自分の執拗な執念深さを感じほとほと嫌になった。

何度もここではないはずと、マインドがこの場面を脇に寄せようと抵抗していることに気づいたので、「ああ、やっぱりここを観ろということか。」と腹をくくる。

左脇腹前側が猛烈に痛くなり呼吸が益々苦しくなる。
この感覚を母のお腹の中で感じている時、母はこの子を堕胎しようか、産むべきなのか。
母のマインドはお腹に子供を宿してしまったという絶望感と、罪の意識、その中に最初の子供はおろすべきではないという道徳観念と最初の子供を堕ろすことで二度と子供を産めなくなるかもしれないという恐怖感との葛藤の日々だった。そのエネルギーをお腹にいるわたしが感じている。まさに、今さっき左側半分に斜め縦方向に貫くエネルギーそのものだった。このエネルギーをお腹の中で四六時中感じていたのだ。
殺されるのか生かされるのか自分のいのちが危ぶまれている状態が日々続いていく。
しばらくこの光景を冷静に俯瞰して観続けていた。

しばらく観続けた後に、自分を殺そうとした人から私は生まれたのだ。
と突如、気づいた(^▽^;)
そこにはわたしのいのちに対する慈しみのかけらも感じない冷たく暗い深い海の底のような、泥のような粘着性も感じるエネルギーだった。母がそのときに感じていたエネルギーそのものなのだろう。

このエネルギーの海がわたしの今世の生の原点だったのだと気づく。

生命が脅かされる恐怖と不安定な感覚、分離された切り離された感覚がこのとき印象深く刻まれたのだと気づいた。何度もこの場面は瞑想で直面し、毎回よりリアルでクリアな感覚として観ることになってきている。

わたしの中の得体のしれない恐怖感と分離感の今世の原点だ。

今世ではわたしを殺そうとした最初の人物が母なのだから(後にも先にも母以外は知る由もないのだが)わたしの中で母を愛する気持ちになれるどころか恨む気持ち、憎む気持ちがなかなかなくならなくても当然なのだということ。そこへの更なる罪悪感や羞恥心がなかなかとれなくても致し方ないのだという感覚にも気づいた。
(これは様々に絡み合う複雑な自分のマインドを紐解く許しのために起きたエネルギーなのだろう)

子供の頃この時の葛藤を何度となく聞かされたことや同じエネルギーを醸し出し、母がよく泣いていたこと。子供時代、親戚がらみで起きた暗い記憶が次々と思いだされた。

大人になり、このエネルギーが顔を出すとき様々な方法で気を紛らわせる方法を見つけてきたそのいろんな場面が思い出される。人に話を聞いてもらう。テレビを観る、電話をかける、本を読んで解決策を探す…食べ物をドカ食いする…カラオケで歌いまくる...全力で走る... SEXをする...etc etc…

そのどの方法もこのエネルギーの根幹的な解消にはなったことはなかった。

でも、子供の頃よりはこのエネルギーを抑圧し、隠し自分をごまかすのがうまくなり、このエネルギーもどんどん小さくなっていっていると思っていた。様々な経験はダイレクトにこの感覚を感じにくくもさせてくれ広い視野になることで緩和もされてきていたはずだった。

しかし、根底で母を愛せていない、ひとつひとつの母の表情や風貌を思い出すたびに嫌悪している自分がいることにも気づいている。50歳を超えた今でも母に似ていると言われることが一番嫌な言葉であることには変わりないのだ…
母の表情、仕草、言葉、匂いが一つ一つ思い出されその感覚、自分の中に生まれる嫌悪感を観続ける。もう徹底して観る覚悟を決めないとわたしは今世を終われないのだな。
と感じた。

と同時に、ここまで憎しみが深い海の底の様な感覚だということは愛のエネルギーに変容される可能性も相当深いのだろうと気づく。

今度は、今の生活がこんなにまで豊かで幸せであることに思いを巡らせていたここ数日間の幸せな感覚を思い出し、今の生活に至るまでの様々な出来事に視点が移っていった。

そこで観えてきたものは自分の人生の分岐点にはすべてと言っていい程、母の存在からの影響を受けていたことに気づかされた。
建築士の仕事に就いたこと、元夫との結婚、離婚、靈氣との出逢い、再出発の土地、母の親友からの助言によって好転した人生の流れ、母を嫌悪してきたからこそ、または母の生き方からの間接的な影響によって独立心を得たからこそ、母から離れ、自分の世界を確立したかったからこその渡豪や石垣での暮らし… 
深いトラウマがあったからこその学問やエナジーヒーリング、瞑想の追求…宇宙の真理との出逢いが自分の人生の軸になり今があるのは母の子供に生まれ、この生におけるカルマを含め様々なマインドの葛藤によって導かれていったものだったのだ。と気づかされた。

母からは自分が一番欲していた母性や慈愛のようなエネルギーを感じたことがない。
そこへの枯渇となかなか消えることが許されなかった得体の知れない分離感への恐怖感こそわたしをここに導いてくれた大切なエネルギーだったのだ。(◎_◎;)

欲している物を得たいという感覚や思いは人からの愛ですらエゴなのかもしれない。

魂が魂の道を選択するために、必要な経験を得、魂が使命の方向に突き動かされる
ことこそが重要であってその都度のエゴの満足なんてものは大きな流れから言えばチリのようなものなのかもしれない。そこからわたしの人生を考えるとなにもかもが完璧な流れであり、出来事であったことがわかる。

人間は不完全な存在であるからこそ、人間と人間が織りなす世界はエゴの上では不完全だ。
しかし、そこに宇宙のエネルギーが加わることにより、大きな流れによって導かれ、魂としての完全な役割が果たされるものなのかもしれない。

母の不完全さ、トラウマ、受け継がれてきたカルマ、母の存在、母の子供として生まれたことによって、様々な感情や経験を味わう事ができているすべての事に。そして、わたしは運命どおり、この生を全うできていること。すべてに感謝しかないのだと思った。


瞑想を終え、一人になり、ふと気づいたら、瞑想中醸し出されていたあの得体の知れないエネルギーが再び自分に覆いかぶさってきた。今回の感覚はまるで津波のようで、俯瞰しようとしてもできない大きなエネルギー体で苦しさを伴うものだった。再び脇腹と胃の付近は痛くなる。瞑想が終わったはずなのにまだ終わらない自分の中の感覚に頭を切り替えようと他のことをして気を紛らわそうとしている自分に気づく。

しばらく葛藤は続いたものの治まらず、苦しさのあまり、この感覚もしっかり正面から観なくてはならないのだ。と受け止めるしかなかった。

布団の上で枕を前に抱え頭を下にグルンと丸くなり「出てくるものもう、全て観続けます。何の抵抗もしません。降参!降参!母が感じていたすべての感覚を私自身もすべて観ます。ほんとうに全部観せてください」と言ったらやっとス〜〜〜〜〜っとエネルギーが流れ嘘のように楽になった。( ゜Д゜)
同時に頭の中心から足に真っ直ぐ貫く光のエネルギーが降りてくるのを感じた。
最近ふとした瞬間にこの感覚が自分を貫くようになり、この光が次第に拡大していく感覚を味わっている。まさにこの時、いのちの喜びや至福感を感じられわたしはとても幸せなのだ。

そこからお風呂に入り布団に入りいつの間にか寝てしまった。


しかし、再び夜中苦しさに襲われた。今度は上から胸全部をつぶされそうな圧迫感。
瞑想時に感じていた苦しさより数倍苦痛のある感覚だった。上半身すべて肺も圧迫されているので呼吸ができない。朦朧とした意識の中、わたしは咄嗟に「この感覚はずっと母が感じ続けてきたカルマの感覚だ!」と気づいた。( ゜Д゜)
まさに目を覚まされるような気づきだった。母のカルマからの感覚はわたしのそれより何十倍も重いものだった。

母はこんなにまで苦しかったのか…
以前に気管支の病気をしたり、子供の頃結核になって結核病棟に入院したことがあるという話を聞いたことがあったので、この時の感覚こそ
母がずっと抱えていたカルマだということは後から冷静に考えてみても合点がいった。
こんな苦しい体を抱えながらもいろんな意味で母は一貫した意思を貫く人だったことをその時再度感じることができ、同時に私の胸の苦しさも解放された。

このときはじめて理屈ではなく母に感謝の思いが内側から湧いてきた。
母は母のいのちを懸命に生きていた。ただそれだけだ。懸命に生きていたその姿こそが
母の最大の愛だったのだ。

おそらく、母を通して愛を知ることがこれからも、まだまだあり続けるのだろう。
まだまだ観続けていこう、観続けていきたいという気持ちに変容された。
瞑想の前半では「もう観る必要なないはずだ。」と思っていたのに…

これからは愛への変容のために、母との関係を観る。

今回の瞑想はわたしの魂は母を選んで生まれてきたのだと気づかざるを得ない瞑想になった。それはわたしの生がこの世に確かに存在している証。確かな愛の感覚であり、一体の感覚なのだ。